真理には、明かすことができる時がある

二十数年前、水澤里修練所で
真のお父様より日本語で直々に

「今は時がきたので、このことを話すことができるようになりました。イエス様の父親はザカリアなんだね。」
との、み言を伺いました。

その時より前にも、
噂では聞いたことのある内容でしたが、
メシアより直接お聞きした
インパクトはズッシリ重く、
今でもハッキリ脳裏に焼きついています。

そして、いろいろ思い出しながら、
こんなことを考えています。

そうかあ、時が満ちなければ
明かせない真理もあるんだな。
じぁ、明かされるまで待つしかないのかな。
でも、神様は人間に自由と責任を
お与えになったのだから、
すでに語られた、
お父様のみ言、
亨進二代王様の説教、
八大教材教本などをベースに
いろいろ考察したり、
推論を組み立てたりすることは、
あながち悪いことではないんじゃないかな。

もし将来、
自説に反する新しい内容が明かされたり、
過去に別の観点で語られたみ言を見つけた時は、
軌道修正して後戻りすればいいだけじゃないか。

そうだそうだ、今は
語る側も自由と責任の時代であり、
聞く側も自由と責任の時代なんだ。

なぜか、ちょっとスッキリした気分に
なりました。

九里教会の皆様ありがとうございました。

by ロード

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