道具としての銃と自動車と包丁について

交通死亡事故があっても、自動車を社会からなくそうという運動は起きません。


包丁による刺殺事件があっても、包丁撤廃運動は起きません。


ところが、銃による乱射事件があると、銃撤廃や銃規制強化の議論が必ず起こります。


しかし、銃乱射事件に関して、被害を軽減させる方策は銃規制強化ではありません。たとえ、銃禁止区域を拡大し、銃規制を強化したとしても、テロリストや抗うつ剤飲用者や麻薬中毒患者や精神異常者による銃持ち込みを完全にゼロにすることは困難です。


そして、一旦、銃禁止区域に銃が持ち込まれて、事件が発生すると、警察が到着するまで、犯人はやりたい放題に銃を乱射し、かえって被害が大きくなります。もしも善良な銃が現場に存在して応戦していたら、被害は小さく抑えられたはずです。


全米ライフル協会でのスピーチで、よく用いられる論法に「邪悪な銃を防ぐには、善良な銃しかない」や「銃が人を殺すのではない。銃を扱う人間が人を殺すのだ」があります。主体は、あくまでも人間なのです。


そして、道具には道具の役割があります。その中には、道具が人間を成長させると言う役割もあります。


小学生が初めて包丁を扱うときのことを想像してください。真剣な表情で慎重に取り扱い、作業が終わると安堵の表情を浮かべて、自らの成長を実感します。


自動車を運転する者は免許の交付を受けなければならず、社会的な責任が伴うことを自覚します。


銃は殺傷力が大きいからこそ、天一国主人である祝福中心家庭としての大きな責任感を心に植え付けます。


銃と自動車と包丁などは、正しく使えば、便利な道具となり、扱う人間を成長もさせてくれますが、誤って使うと、人の命を奪うこともできるので、扱う者を破滅に至らせることも起こり得ます。




by ロード




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