興南強制収容所の歴史と現在

(22)まだまだある北の「日本遺産」 一企業がつくった興南工場

http://www.sankei.com/smp/premium/news/180609/prm1806090017-s1.html

日窒(にっちつ)コンツェルンの野口遵(したがう)(1873~1944年)が昭和2年6月、朝鮮東海岸興南に工場の建設を始めた頃、同地は20、30の家屋が点在する寒村だった。野口はここに化学肥料、金属、燃料、火薬、宝石などによる東洋一の化学コンビナートを建設。従業員約4万5千人、家族らを含めた総人口約18万人の近代都市を造り上げる。

しかも、短期間でやり遂げねばならない理由があった。やはり、野口が進めた朝鮮北部の水力発電所群の大電力を消費するためには「セット」になる大工場群が不可欠となる。電力はためておくことができない。使い道がなければ“宝の持ち腐れ”になってしまうからだ。野口の回想だ。

 《赴戦江の発電所(昭和4年末第一期完工)が送電を始めるまでには何としてもここに工場を完成しなければならない。道路や鉄道の工事から始めなければならなかったのだが、冬の寒さの格別な北鮮で、昼夜兼行の大奮闘を続けたのである。昭和2年、工を起こしてから、わずか2年8カ月で…硫安の製造を始めることができた》(『今日を築くまで』から)

 ほぼ一私企業が造り上げた興南の近代都市ぶりを紹介してみたい。工場・住宅地などの敷地面積は、五百数十万坪。そこに、多数の従業員を住まわせる社宅、病院、学校、警察署、郵便局、図書館、運動・娯楽施設、供給所(スーパーマーケット)を造った。施設は、れんが造りで完全電化、水洗トイレ、蒸気によるスチーム暖房、朝鮮人従業員の社宅はオンドル(床暖房)を備えていた。

 「洋風の広い社宅はスチーム暖房で冬もポカポカ、お風呂には、いつも熱いお湯が流れ、電気炊飯器でご飯を炊いた。内地(日本)よりも、はるかにモダンで、いい生活でした」と元従業員の妻は懐かしむ。

 隣接する興南港は、1万トン級の船舶数隻が停泊でき、約1万坪の大倉庫、50トンクレーンなどを備えた朝鮮屈指の良港になった。この港は後に、終戦直前に侵攻してきたソ連(当時)軍が“火事場泥棒”のごとく満州(現中国東北部)などから持ち去った日本の設備や機械類を運び去るのに、また、日本人をシベリアに抑留するのに、さらには、日本人が内地へ引き揚げるときにも使われ、明暗さまざまなドラマを目撃することとなる。

 ■徴用工に旅費まで支給

 昭和20年8月19日、ソ連軍は、朝鮮東海岸の元山に上陸、それを後ろ盾にして朝鮮人共産主義者らによる人民委員会が結成され、日鮮の立場が逆転する。殺害、暴行、略奪、レイプ…地獄のような行為が続くなかで、興南工場も接収され、日本人従業員は社宅から追い出された。

 こうした混乱の中でも律義な日本人は、朝鮮人徴用工に旅費まで渡して帰郷させている。ところが、不埒(ふらち)な朝鮮人警備係が旅費の一部を持ち逃げしてしまい、責任を問われた日本人の担当者は拘束され、やっと、自前で弁償して釈放されたという記録もあった。

 また、軍部などからは「敵に渡す前に工場を破壊せよ」という指示があったにもかかわらず、工場側は「われわれの事業は朝鮮に有益なものだ。戦争に負けても必ず必要とされる」と主張し、破壊しなかった。まさに“お人よし日本人”の面目躍如である。

 朝鮮人共産主義者の手に渡った興南工場はその後どうなったのか?

 5年後の朝鮮戦争(1950~53年)で工場設備の多くが破壊されたが、まもなく復興し、日本人がつくった水力発電所群とともに北朝鮮の化学工業発展の原動力となった。一部工場は、北朝鮮“自慢”の合成繊維「ビナロン(ビニロン)」工場になった。実際にはビナロンは戦前、京都帝大で朝鮮人と日本人研究者が共同で開発したものである。

現在、興南工場は「興南肥料連合企業所」として名前を変え、今も窒素肥料などを生産する主力工場であり続けているが、《1990年代の大規模な設備破壊と事実上の放置により、実際の生産能力は大幅に低いものと推定される》(韓国産業銀行統計)。

=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)






【感想】

興南工場が内地(日本)よりもバラ色の生活のような印象を与え、私たちが何度も主の路程で聞いてきた、興南収容所は囚人を強制労働させる生き地獄と言うイメージとはかけ離れた記述である。それでも、お父様がご苦労された興南の歴史的背景や現状を知ることができ、興味深く読むことができた。そして、この機会にウィキペディアも読んでみた。


(参照URL)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日窒コンツェルン



そして、徒然なるままに、心にうつりゆくことを何となく書いてみます。




クリスチャンが十字架と言う言葉から想い起こす人物は、たった一人です。その当時、十字架は特殊な処刑方法ではなかったので、十字架に架けられた死刑囚は何千人もいたはずですが、二千年の時を越えて、十字架から連想する人物はたった一人だけなのです。本物だけが歴史に残り、あとは流されてしまいます。同じように、私たちが興南と言う言葉から想い起こす人物は、たった一人です。興南収容所に収監された囚人は何千人もいたはずですが、興南から連想する人物はたった一人だけなのです。本物だけが歴史に残り、あとは流されてしまいます。





by ロード




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