乃木希典と居島一平

【日本近代史偉人解説】居島一平 陸の乃木こと乃木希典を語る!! 日露戦争、旅順攻略の指揮を執った司令官





全16分間


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学習院の空気一変! 新院長、乃木希典の超厳格教育

http://www.sankei.com/smp/premium/news/180818/prm1808180009-s1.html

主に華族の子弟が学ぶ教育機関として明治10年に創立された、宮内省直轄の官立学校だ。華族中心ながら当時は武術、馬術など武課教育を重視しており、学習院の名称は明治天皇が定めた(※1)。

この学習院の第10代院長に、明治天皇の意向で軍事参議官の乃木希典(まれすけ)が就任したのは明治40年1月、裕仁親王が入学する1年前である。

 明治天皇は詠んだ。

 いさをある 人を をしえの親にして

 おほしたてなむ やまとなでしこ(※2)

 乃木の院長就任により、学習院の空気は一変した。同校はその頃、柔弱華美の弊に流れていると批判されていたが、「(乃木院長が)明治四十年代の学習院に大きな影響を与え」たと、同校発行の「学習院百年史」に書かれている。

 乃木が学習院に持ち込んだのは、質実剛健、質素勤勉の気風だ。中・高等学科を全寮制にして自ら住み込み、生徒と寝食をともにし、「贅沢(ぜいたく)ほど人を馬鹿にするものはない」「寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ」と訓示した。規律は厳格で、華族だろうと年少だろうと容赦はしない。

 院長就任後の40年4月4日の寒日、乃木は早速、皇孫仮御殿を訪れた。

 《学習院乃木希典参殿につき、(裕仁親王は)雍仁(やすひと)親王と共にそれぞれ謁を賜う。乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、ええ運動しますとお答えになる》(昭和天皇実録2巻17頁)

 裕仁親王は、火鉢にでも当たっていたのだろう。乃木は断然、外遊びを促した。学習院に入学する1年前からこの調子である。

 41年4月11日、学習院初等学科の入学式。約百人の新入生が整列する講堂の前列中央に、制服姿の裕仁親王がいた。

 開式後、乃木が厳かに教育勅語を奉読する。東京朝日新聞によれば、裕仁親王教育勅語を「他の学生に劣らざる不動の姿勢もて終始整然と御直立」して聞いた。

 その健気(けなげ)な姿勢に、乃木は、将来の天皇初等教育を担う自らの責任の重みを、再認識したに違いない。







【感想】

203高地で勝利したとは言え、戦術の稚拙さで乃木希典は愚将かと思っていた。ところが、居島一平の演説を聞いて評価を変えた。乃木大将は類い稀な人格者であり名伯楽と思う。そして、居島一平は三重人格の側面を持つ。1つ目は虎ノ門ニュースのMCを務め、常にコメンテーターを立て、時には、いじられながら巧みにかわしている。2つ目はコメディアンで、放つ熱量は半端ない。3つ目は歴史学者顔負けの知識を有し、話に引き込む歴史専門家である。そして、上記の動画は面目躍如である。世の中には、様々な分野に、こうした人格者や実力者はごまんといるが、そうした人に対しても、堂々と三代王権を証しする備えをしていきたい。





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