原理講論に関する考察

原理講論の総序の終わりに「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり」「時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表される」と記述されており、完全無欠な真理の書ではないが、そのことが原理講論の価値を引き下げることにはならない。原理講論の発刊当時における主要ターゲットはクリスチャンであり、そのため神学体系を形成するにあたり多数の聖句が引用された。マリアを聖母と崇め、処女降誕を信じる者への配慮から、イエス路程の失敗の原因をイスラエル民族の背信と洗礼ヨハネの不信に留め、マリアの失敗まで言及することは控えた。ましてや、黒い天聖経に記述されているイエスの父親がザカリアであった件は、発刊当時には秘中の秘として封印された。また第二次世界大戦や日韓関係に関わる記述に関しては、多少事実と異なる箇所があったとしても、私は特に訂正は求めたくない。なぜなら原理講論は、歴史書というより教理の経典であり神学書である。発刊当時には特別な摂理的事情と社会環境があった。このことは、あたかも聖書を科学書ではなく教典であり啓示の書であると捉える立場と似ている。創世記の天地創造の記述を、逐語霊感説で文字通り信じるクリスチャンもいるが、一般的には科学的な事実と食い違う箇所もある。もしそうであっても聖書の価値は一向に変わらない。また仮に聖書の内容を隅から隅まで完璧に理解したとしても、イエス様をメシアとして信じなければ、その知識に何の意味があるだろうか。同様に原理講論の内容を隅から隅まで完璧に理解しても、お父様を再臨主として受け入れなければ、その知識は無意味になってしまう。たとえ何度も何度も原理講論を訓読しても、サタンの巧妙な罠に嵌って、偽メシアである独生女に惑わされ、メシアを見誤ってしまえば、悲劇としか言いようがない。




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