【本然世界に展開する真の父母様本体論に対する論考 補足1】

【今回の記事では、岩崎栄樹さんの論考 補足1を掲載します。なお承認制だったコメント欄を開放しますので、感想や意見のある方は、当記事コメント欄に書き込んでください。by ロード】

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本には書いてありませんが、動画で、彼は、本来神様は人間を創造することは、必要なかったと言っています。恩恵で創造したと言っています。それでは、どうして神様は人間を創造したのでしょうか。
彼に言わせれば、神様にとって、我々はいてもいなくてもいい存在なのです。
お父様は、人間は神様にとって絶対に必要な存在だと語っておられます。これは、我々が今まで考えてきた神様の人間に対する創造の心情です。しかし、彼の考えはそうではありません。
神様は愛の主体なので美の対象を求め、その対象から美=情的な刺激(統一思想より)を受けたいというのが創造の動機であって、愛を受けたいというのは対象の被造物が抱く思いです。すでに神様の中に愛があるのに、なぜまた対象から愛を受ける必要があるのでしょか。ただ自分の中にあると愛を感じることができないので対象から美を受けることで、ご自身の中にある愛を感じたいというのが創造の動機です。


無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱 いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう。そのような刺激が必要だというのです。(『文鮮明先生御言選集』 141-37)

いくら神様が愛をもっていたとしても愛する対象がいなければ愛を感じることが できないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。神様が人を最も貴く思うのは、人間は神様が愛することのできる対象の位置に、愛の対象の位置にいるからです。神様が最も貴く思うのは正に人間なのです。(『文鮮明先生御言 選集』 143-309)

神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者であっても一人では喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることがで きないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人 公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じるこ とができず、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。(『文鮮明先生御言選集』 38-152)

岩崎栄樹 拝





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