今回の記事に関しましては、是非、読者の皆様のご意見をコメントしていただきたいと思います。
よろしくお願い致します。
私が、統一教会の信仰を持つことは、
お父様のみ言を絶対として受け入れることと
同意語でした。
そして、サンクチュアリーの信仰を持つことは、
お父様のみ言を絶対として受け入れることの
延長線上に、亨進二代王様のみ言を
絶対として受け入れるということでした。
つまり、宗教的案件の最終決定権を亨進二代王様に委ね、裁定が下りれば受け入れるということです。
だから、アベルは絶対だ。という話とは、全く次元が違います。むしろ、アベルは間違えるものだ。
という考えを持ち続けてきました。
私の考えでは、お父様や亨進二代王様への純粋な信仰をカルト一直線と批判する考え方のほうが、相対主義となり危険だと思います。
また、自分は、完成人間ではないので、自分の良心を過信することに注意しています。いつの間にか巧妙に自分の思いにすり替えられて、良心の思いだと錯覚させられることがあると考えているからです。
ですから、錯覚かもしれない自分の良心の思いを「亨進二代王様は絶対だ」という考え方より上位に位置付けることには同意できませんし、それは信仰ではないと考えています。
つまり、私たちの良心の思いとは、たとえ条件を立てて祈り込んだ後に受けた内容であっても、一般啓示の域を出ないと思っています。
それに対して、お父様のみ言は、特別啓示であり、亨進二代王様は、お父様の霊を体現していらっしゃるので、そのみ言も特別啓示です。
19世紀までの人類歴史を通して、特別啓示を受けた人間は、堕落前のアダムとイエス様しかいらっしゃいませんでした。
by ロード
クリックして応援してね。
にほんブログ村