戦国時代のキリスト教宣教師を悩ませた禅僧からの難問で、現代の牧師に尋ねてみました

百田尚樹氏の著作に「日本国紀」があります。その中のコラムにキリスト教の宣教師を悩ませた禅僧からの4つの質問事項が載っています。そして「これらの疑問はいずれもキリスト教の本質と弱点を衝くもので、宣教師たちは明確な答えを示すことができませんでした。」とあります。

①「悪魔は神の恩寵を失った者というが、その悪魔が人よりも大きな自由を持ち、人を欺き、正しい者を滅亡の危機に導くことができるのはなぜか?」

②「神が愛の神であるならば、なぜ人が罪を犯さないように作らなかったのか?」

③「善をなす人が現世において報いられず、悪をなす人が許されるのはなぜか?」

④「キリスト教の神が全知全能であるなら、その愛をなぜこれほど長く日本人に隠していたのか?」


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これらを現代の牧師に質問すると、なんと僅か30分後に回答が戻ってきて驚きました。
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1つ目は、キリスト教会内でも議論されることです。ヨブ記を読むとわかるのですが、悪魔の働きも一定、神様の支配の中にあるようです。これは神様の義に反するため、理性的には矛盾します。これは聖書からそう読めるから信じるしかないと私は思っています。三位一体と同じです。

2つ目ですが、神様は愛のゆえに人に自由意志を与えました。愛は相手を支配しません。強制しません。従わない自由を与えます。愛情深い親が、正しいからとの理由で強制せず、主体的に選び取ることを願うのと同じです。聖書では、愛と自由と責任はセットです。神様は愛だからこそ、自由を与え、主体的な愛の応答を願いました。事前に従わなければ死のあることを予告し、結果責任を負わせました。

3つ目は、聖書が信仰義認だからです。行いによってではなく、信じることで救われます。神様は悪人が滅びることを願わずに、悔い改めて生きることを願います。善人のためにも悪人のためにもイエス様は十字架で死なれました。これは、南無阿弥陀仏で救われる浄土宗などと共通かと思います。逆に善人だけにしか救われる資格を与えないなら、愛は限定的でしょう。悪人の悪の責任は、十字架で、すでに贖われているので、神様に不義はないと考えます。

4つ目です。神様の救いの業は歴史を通してなされました。最初はイスラエル民族限定です。それを通じて、世界に救いは広がりました。また、イザヤ書45章15節は、神様はご自身を隠される神でもあると記しています。ルターは、これを大切にしました。神様は、誰にでも明らかな形ではあえて自らを示さず、知ろうとするものに出会ってくださるという一面もあります。
 また、ローマ1章は、被造物世界、つまり、自然界自身が、神様を掲示しており、全人類は創造主であり支配者である神を知り得るとしています。それを偶像に置き換えたことを罪の根源にしています。福音を知らずに死んだ人類について、聖書は、神様が与えたその人の良心に応じて裁かれるとしています。


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参考記事
https://hamamatsu3000.hatenablog.com/entry/2024/05/08/070158
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by ロード




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