【本然世界に展開する真の父母様本体論論考 補足37】

【今回の記事では、岩崎栄樹さんの論考 補足37を掲載します。なお承認制だったコメント欄を開放しますので、感想や意見のある方は、当記事コメント欄に書き込んでください。by ロード】

▪️▪️▪️





〈お父様は聖霊(ソンリョン)と聖神(ソンシン)を区別して使っておられる。また、エバ聖神(ソンシン)である。〉

聖霊(ソンリョン)】
文鮮明先生のみ言、洗礼ヨハネについて次のように語られています。”

エスが洗礼を受けようと洗礼ヨハネのところに来たとき、洗礼ヨハネは霊的に感動してイエスを証しました。洗礼ヨハネは、聖霊が鳩のようにイエスの上に降りるのを見て、「彼は私が喜び愛する息子であり、彼が世を救うであろう」という声を聞いたときは、イエスを証したのです。
 しかし、彼が正気に戻ったときは違いました。聖霊が自分から去ってしまうと、それは夢のことのように思いました。ここに霊的に啓示を受ける食口がいれば、皆さんもそのような経験をしたことがあるでしょう。(『文鮮明先生御言選集』 52-115 1971.12.25)
 예수가 세례를 받으려고 세례 요한에게 왔을 때, 세례 요한은 영적으로 감동되어서 예수를 증거했습니다. 세례 요한은 성령(ソンリョン)이 비둘기같이 예수 위에 내리는 것을 보고, ‘이는 내가 기뻐하는 사랑하는 아들이요, 그가 세상을 구원하리라.’는 소리를 들었을 때는, 예수를 증거했습니다.
 그러나 그가 제정신으로 돌아왔을 때는 달랐습니다. 성령(ソンリョン)이 자기에게서 가 버리고 나자, 그것은 꿈만 같았습니다. 여기에 영적으로 계시받는 식구가 있으면, 여러분도 그와 같은 경험을 하였을 것입니다.

“ヨルダン河でイエス様に降臨された聖霊(ソンリョン)”
ヨハネ福音書一章33節から34節を見れば「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかた(神)が、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人(キリスト)こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」と言った洗礼ヨハネの告白が記録されている。(『原理講論』P.199)
 요한복음 1장 33절을 보면, 나도 그를 알지 못하였으나 나를 보내어 물로 세례를 주라 하신 그이(하나님)가 나에게 말씀하시되 성령(ソンリョン)이 내려서 누구 위에든지 머무는 것을 보거든 그가 곧 성령(ソンリョン)으로 세례를 주는 이(그리스도)인 줄 알라 하셨기에 내가 보고 그가 하나님의 아들이심을 증거하였노라고 한 세례 요한의 고백이 기록되어 있다.

聖神(ソンシン)】
“『原理原本』にある聖神(ソンシン)に関するみ言”

「그룹들이 돌며 빛난 화염검을 두어 생명나무에 이르는 길을 지키게 하심이 었다.」(창세기 3/24)
이 生命樹라는 겄은 하나님끠 直接 속할 수 있는 自体를 막어버리게 되였 다. 이겄이 人間이 하날을 対하여 한 間隔이였의였다. 이 間隔를 알내면은 原 理的 存在가 出現하여만이 始作된다. 그 存在는 卽 第二 아담 예수와 해와 聖神(ソンシン)이 出現되어야 한다.
 그런고로 예수가 땅에 와서 自己 根本 使命的 役割를 畢하고 昇天하고 난 後에 聖神(ソンシン)降臨서 부터가 다시금(사행2/1-4) 火焰劍의 除去되여야 한은 겄이 事実的으로 原理이무로 聖神(ソンシン)은 五殉節에 火갗은 舌를 갈르면서 各人에게 臨하 심은 이 生命樹인 길의 하날的으로부터 열리기였끼에 우리는 다시금 永生할 수 있는 生命樹의 道를 찾게 되어 生命果까지 取하여 永遠理想 永生를 取하여 야 할 路程은 許與되였다.

「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置い て、命の木の道を守らせられた」(創世記3章24節)
 この命の木とは、神に直接、属することができるものであるが、そこに至る道 をふさいでしまったのである。このように人間と天の間に一つの間隔が置かれる ようになったのだが、この間隔について知ることは、原理的存在が出現してはじめて始まるのである。その存在とはすなわち、第2アダムのイエスと(第2)エバ聖神(ソンシン)が出現しなければならない。
 それゆえ、イエスが地に来て、自らの根本使命としての役割を終えて昇天した のち、聖神(ソンシン)が降臨したときから再び(使徒行伝2章1~4節)「回る炎のつるぎ」 が除去されなければならないというのが原理である。そのため、五旬節に炎のよ うな舌が現れてひとりびとりの上にとどまり聖神(ソンシン)に満たされたというのは、命の 木への道が天から開かれたということである。したがって、我々は再び命の木へ の道を訪ね、命の実までも得て、永遠の理想である永生の路程を歩むことを許諾 されたのである。(『原理原本』第一巻13「命の木に対する根本意義」より)
※翻訳責任:伝道復興委員会 副委員長 中村仁史 

韓国語原理講論のキリスト論は全て聖神(ソンシン)です。

菅井氏は、「二代王様のみ言には、聖神が一度だけ出てきているようですが、聖霊と同じ用い方をしています。み言を読めば、女性神などという考え方を一切拒否されている内容になっています。聖神に対して独自な、エバの神性や女性神などという特性を与えるこては、聖霊を女性に変えようとしている事と同じです。」と述べていますが、お父様の原理原本では、「エバ聖神」となっています。

「第2アダムのイエスと(第2)エバ聖神(ソンシン)が出現しなければならない。」

お父様が、意味もなく、聖霊(ソンリョン)と聖神(ソンシン)をわけて使われるはずがないし、「エバ聖神」などと言われるはずがありません。

それを考えるのが、菅井氏の役目ではないのですか。
あなたは、これをどのように解釈しますか。
お父様は、適当に原理原本に書かれた。適当に原理講論に書かれた。
このように、解釈しますか? 

これは、比喩や喩えではなく、単刀直入なみ言葉ですよ。
読めば誰にでもわかる説明の必要のないみ言葉です。
解釈の必要のないみ言葉です。
これを、あなたは否定している。
反キリストと言われても仕方がありません。

このような重要な二代王のみ言葉を、原文も提示しないで、間違っているかもしれない翻訳文を信じて、議論して来るとは軽率にも程があります。

岩崎栄樹 拝






クリックして応援してね。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ サンクチュアリ教会へ
にほんブログ村